ピアノ
2004/06/17

 私の姉が再現在入院している病院にはピアノが置いてある。姉が足掛け1年近く入院してる病院に置いてあるピアノは、アップライトピアノである。更には凄く古いけどエレクトーンもある。

 ピアノなんて私には縁のないものだから、ピアノが置いてあるなあ程度にしかなにも思うことはない。置いてあるピアノも、時々、お見舞いに来た誰かが弾いている程度だ。ピアノを弾いてみようと思ったって、どこが「ド」かさえも分からない。それほどにピアノにも楽器にも縁がない。

 姉がこの病院にリハビリ目的で入院してから、私は姉のリハビリを兼ねて姉と一緒に歌を唄ったり、歌を唄いながら院内外の散歩をしてた。その間9ヶ月ほどになろうか。体力もわずかながらついて、高次機能障害で先方記憶障害の面が強い(新しいことを憶えにくい)ながら精一杯のリハビリをしていた。

 姉には構音障害もあって、普通に喋るような音の大きさの声も出ず、またろれつも良く回らない状態である。本人は意味のあることを言っているみたいなのだが、それが共通の言語の組み合わせになっていないみたいなのだ。そんな姉の声も大きく出るようになり出した頃である。今から3ヶ月ほど前に姉にアクシデントがあって、一度転院をしてからの再入院である。そのアクシデントは、唯一院内で自力で歩いて散歩できる患者がだった姉が右半身不随となり、寝たきりとなって最も介護度の高い患者になってしまったのだ。

 3ヶ月前の姉なら一緒に院内を散歩したり、院外に出て散策をしたりしながら時間を過ごすことができた。姉や他の患者さんと一緒に歌を唄うこともできた。姉にお茶を入れさせ、それから簡単なゲームをしたりして時間がたっていたのだ。そして姉の夕食に付き添い、食後の歯磨きを手伝ってから私は帰るという日課を過ごしてきたのだ。そんな姉の見舞いに行っても、私はこれまでのように姉と歌を唄ったり散歩をしたりする、当たり前の日課がなくなってしまったのだ。姉のそばについてマッサージなどしていても、その後はやや手持ち無沙汰でもあった。

 アクシデントの後の姉の症状も落ち着き、それを見て私の気分も何とか落ち着いてきてた頃。姉の今回のアクシデント以前に、姉と一緒に歌を唄ったりしていた他の患者さんたちと、手持ち無沙汰なもので歌を唄う時間を作って過ごしていたりしていた。この頃は夕食の時に顔を会わせる馴染みの患者さんたちもまだたくさんいたのだ。古い歌の歌詞などをインターネットで探してプリントアウトして持って行くと、お年寄りが喜ぶので私はそれがまた嬉しくて色々な古い歌を探しては歌詞をプリントアウトして姉の病院に持って行った。

 その歌詞を元にお年寄りの入院患者の方から歌の唄い方を教わったりしていた。お年寄りの入院患者といっても、ほとんどお年寄りばかりで私の姉などはまだ若い方である。といっても私の姉には二人の孫もいる。兄弟姉妹の中で、私のすぐ上の今入院している姉が一番結婚が早かったのだ。リハビリのある長期入院型介護病院は、言えば脳梗塞や怪我などで入院しているが、基本的に自分の身の回りの世話が自分で不自由になった人たちの集まりである。その中で姉は両手両足が動いて羨ましがられていた。

 ただし姉には高次機能障害があり、自分の意思を相手に伝えることはとても難しい。弟の私であれば多少何かなと分かる程度だ。前方記憶障害があり新しいことが覚えられないため、そういった面でのリハビリは、本当に遅々としてしか進まない。返って手足の動かない方たちのほうが言動はしっかりしている。事実、姉の知人に「多少手足は動かなくても、言動がはっきりしていた方が良かったんじゃない」とさえ言われたこともある。

 そんな姉が、自分の身の回りの世話に不自由なためにその対処やリハビリの為に入院している車椅子生活の方たちの中でも、今はそれすら出来ないただ寝たきりとなってしまったのだ。食事も食堂ではなく経鼻カテーテルを通して鼻からの流動食だ。このショックで私は体重が7kg痩せてしまった。

 再入院してからは姉の状態が落も落ち着いてきていた。その間も私は数少ない身内のひとりとして、毎日姉の元に病院通いである。姉に一通りマッサージをしてやり、後は童謡や唱歌に古いカラオケなどをうって聞かせるぐらいしかすることがない。歌を唄ってやっていても、聴いているのかどうかも分からない。私はそんな病院での日々を過ごしていた。

 そんな姉のベッドの前にひとりのおばあちゃんが入院してきた。このおばあちゃんはカラオケが趣味と言うので、一緒に歌を唄ったりしていた。おばあちゃんの好きな歌は、美空ひばりの「私は街の子」やディック・ミネの「夜霧のブルース」だ。私は街の子は昭和26年、夜霧のブルースは昭和22年だ。古いぞ。

 姉が経鼻カテーテルでの食事となって食堂へ行くこともなくなってしまったけど、私は食堂で夕食の前のひと時を、歌を唄うのが好きな人たちと一緒に歌を唄ったりして過ごしていた。「湯の町エレジー」や「啼くな小鳩よ」とか「紅屋の娘」など聞いたこともないような歌を、入院患者さんたちのリクエストによって、ネットで歌詞を探し出してプリントアウトして持って行った。そしてそれらの歌を私は患者さんたちから教わったのだ。音痴な私がカラオケに行って歌の採点で一番高得点なのは「啼くな小鳩よ」なのだ。食堂で夕食が始まるとカラオケ会も終わりである。姉の側にしばらくいてもすることもなく、その頃はいつもより早めに帰宅するようにしていた。

 あるときインターネットで童謡や唱歌の歌詞のみならず楽譜も手に入るサイトがあったので、楽譜つきの歌詞幾つかダウンロードして病院に持って行った。病院においてあるピアノで弾いてみようかと思ったのである。最初は「ド」の位置も分からなかったが、インターネットでこういったことも調べることができるので、黒い鍵盤二つの左が「ド」の位置であることが分かった。特に中央に有る「ド」真ん中の「ド」と言うそうだ。これは五線譜の下に線を引いて音符を書く「ド」の事だ。

 半月ほどわけの分からない音を出していたが、そのうち最近は音楽になっているねと、病院のスタッフの方が言ってくれるようになった。音を出しているといってもピアノ本来の弾き方の伴奏ではなく、ピアノでは弾かないボーカル部分を私はを弾いているだけである。

 伴奏部分の弾き方が楽譜に書いてあるんだろうといったこともなんとなく分かったのは最近である。伴奏部分の右手の「ト音記号の楽譜」は何とか理解できても、左手の「ヘ音記号」に至っては、音階を照らし合わせてみてもなかなか頭に入らない。

 最も伴奏部分の楽譜が少し分かるようになったからといって、右手と左手は別々には動いてくれない。パソコンでキーボード(楽器の方じゃなく文字入力の)で両手を使うので、右手と左手でボーカル部分の楽譜をそれぞれ引くことが何とかできる程度だ。

 ピアノを弾くのも楽しい。それで市民センターの音楽室を借りてピアノの練習をしたりもしている。本気でピアノ教室にも通おうかなと思っていなくもない。自分の伴奏で歌が唄えたらそれはすてきなことだろう。

 しかし、最近2週間ほど姉の具合が良くなかった。下痢や喉に淡が絡んだり、熱が出たり冷えたりと、最悪の状態だ。経鼻胃カテーテルからの流動食も止めて、点滴だけ1週間ほど続いていた。点滴で手も足も脹れ見ていてもかわいそうである。

 私はよりすることが無くなり、ただ、午後7時ごろまで姉の側にいて、ごく軽いマッサージと手を握っていた。そして姉に歌を唄ってあげて過ごしていた。そんなことでここのところピアノにも触る時間が無かった。

 2−3日前から点滴も取れて経鼻胃カテーテルによる流動食となった。流動食も種類を変えてくれたそうだが、まだ下痢は収まっていない。下痢によるやつれた様子も姉には見えない。しかし寝たきりとなって筋肉も衰え体力も落ちて少し痩せ出しているには間違いない。

 そんな様子の姉だが、昨日あたりから姉の表情が良くなり,今日もそんなに悪いような表情ではない。そんなことがうれしいものだ。他の入院患者さんの病院の食事も終わって、午後7時前に私は帰りについた。

 階段を下りてもう一つの出口近くに置いてあるピアノが私を呼んでいる。姉の状態がちょっと良いだけで気分も軽い。私はピアノの蓋を上げて、黄金虫と船頭小唄を弾いた。ボーカル部分だけだが、今日、この二つは楽譜を見ないでも弾けるようになった。

Cools