ナルシズム
2004/10/14

 私はパソコンを使うようになって、文章を作成するようになった。文章は作成出来ても、日本語にはなっていないいい加減な文法と文字使いの文章だ。そんな文章でもパソコンで作成した文章は、インターネットを使って世界に向けて発表することが出来る。

 およそインターネットという物がなければ、私の作るような駄文にもならない文章なんて他の人に見てもらおうとする事は叶わないだろう。まあ、自費出版なんてのもあるけど、自費出版するほどまとまった文章は書けそうもないし、自分の文章がどんなものか分かっているので、自費出版するほど金を使うつもりもない。いや使う金もないと正直に言おうか。

 インターネットがあればこそ、今ここにこんな風にしてタイピングをして文章をしたためることが出来る。ただ、頭に浮かぶ文章をタイピングしているだけだ。次に何を書いて話題に変化をつけたり、どうやって話題の幅を広げて文字数を稼ごうかと、一丁前に考えている。

 インタネットが生活の中にまで浸透して、誰でもがインターネットを使って情報発信できる環境になってきた。とは言え地球は60億の人間という個体が成育する場所だ。このインターネットが全ての人に行き渡っているわけではない。地域によるインターネット環境落差は当然にある。

 そんなインターネット環境落差についての話題は別の機会に譲るとして、インターネットを利用しているネットピープルに対してのインターネットの話としよう。そのインターネットを利用することによって、ホームページを持って情報を発信することは、全地球上のネットピープルに向けて情報発信できるのだ。

 そりゃどんなメディアだって情報を発信しているが、そのメディアの情報そのものを受け取っていないの人々の方が圧倒的多数なわけだ。つまり【一メディアの受信者数 < 非受信者数∞】の図式が成り立つ。その一メディアの中にも幾つものコンテンツがあり、それぞれのコンテンツも同じ関係図式が成り立つ。TVで言えば、あるチャンネルのある番組みたいなものといえるかもしれない。CM(コマーシャル)放映もその一だろう。

 これはインターネットにも言える。インターネット自体一つのメディアではあるが、その中身は一つ一つのコンテンツの集合体だ。その一つ一つのコンテンツが一つのメディアでもある。その一つ一つコンテンツであるメディアに大してもさらに【一メディアの受信者数 < 非受信者数∞】の図式が成り立つ。

 こんなふうに文章を作っていると、これを閲覧して読む奇特な人もいるだろう。ありがたいというか、ご苦労様というか、まあ、やはり奇特な人としか言い様がないだろう。そう。お察しの通り。今まで何とか文字数を稼ごうと文章を作ってきただけなので、これらの文章には何の理論も哲学も思念もない。ただ日本語の「あかさたな」が日本として並んでいるだけだ。

 さて、ここから話題を変える。

 情報発信はメディアだ。人口の数だけメディアがある。人口の数だけメディアがあるといっていても、話の展開が違って来るので、とりあえずはメジャーどころのメディアとしよう。そういったメジャーどころメディアを介して、世に出てくる人がいる。

 私はそういった人たちに対して、誰であれ本当にすごいんだなあと感ずる。文章を作ってそれを何部かでも、全くの赤の他人に売ることが出来る。歌を唄って第三者から金を稼げる。体を動かして第三者から金を稼げる。そういった人たちをプロというのだ。

 私は、ここに、頭で思いついた文章を指先を動かしてキーボードを介してタイプしている。時間があればインターネットを利用したカラオケをする。文章は自分のホームページにアップロードして、全世界のネットピープルがいつでも閲覧できる状態にある。いつでも閲覧できるとはいえ、日本語の文章だから国語が日本語の人しか読んではくれないだろう。

それに、私のホームページのあるサイトまで訪れてくれる人はほとんどいない。つまり全く知られていないし、間違ってアクセスする人がいる程度のコンテンツしかないから、間違ってアクセスした人しか来ない。さらに日本文章だから、間違ってアクセスしてもちょっとみてやろうなんてこともなく、サイトに滞留する時間も短いだろう。「あっ、間違えた戻ろう」で終わりなんだろうなあ。

 でも、それでいいんだ。いや、いいわけじゃないけどそれがこのサイトの実力だ。いいんだそれで。自分の実力は自分が一番知っている。自分の文章なんて、こそこそ隠れてやっている自慰行為のようなものだ。人を感動させようとかの思いも強くないから、結局こんな文章しか出来ない。そしてカラオケもそうだ。

 今年の四月からカラオケを始めてぼつぼつ六ヶ月。まあ何とかカラオケらしくはなってきたけど。自分のカラオケをテープに録音して聞くけど、その唄は幼稚園クラスでしかない。いや幼稚園クラスなんていったら、幼稚園児童のほうがよっぽど声がきれいで、音程が合ってたりするので怒られそうだ。

 つい先日NHKTVで放映のあった、NHK全国合唱コンクールを幾コマか見た。小学生の部だったのだが、どの子どもも表情豊かに合唱をしていた。私の歌唱力はあの子どもたちの足の小指の爪の先ほどにも及んでいない。情けなかろうところれは事実だ。

 今日、自分の唄ったカラオケのカセットテープを聞きながら、ああいつになったら伴奏に合わせた歌が歌えるのだろうかと、本当に情けなくなった。情けないどころではなく、今文章をタイピングしていて、自分に対して怒りさえ湧いてきた。癇癪を起こしたい気持ちである。何度も何度も繰り返し練習している歌が、いまだに大幅に伴奏から外れる事があるのだ。特に感情のままに歌ってしまうと、伴奏の音が取れなくなって、後で録音を聞くとかなり調子っぱずれになっている。

 スナックなどでも歌の上手な人はいる。多少音程は外れても伴奏に合わせて歌を唄っている。伴奏に合っていれば歌はそんなに違和感なく聞ける。ほとんどの人の歌は違和感なく聞こえる。私は伴奏に合わせるのからして難しい。積年の音痴というやつはこうも祟るものなのだろうか。

 世に名の知られている歌手といわれる人たちの歌を聞いてみる。一度は耳にしたような流行歌なら特に、歌手の歌い方や息づかいなど、それら一つ一つが全て魅力となっているのだ。今までそんな事は気づきもしなかった。

 文筆力にしても歌唱力にしても、上手いとか下手じゃなく、人を魅了するものを持っている人はやはり世に出ている。残念だけど、私にはそういった人を魅了するような文章力も歌唱力もない。それでも、こんなふうに文章を作るのは好きだし、録音したテープを聴いて悲嘆するけど、カラオケを唄のも好きだ。

 歌が上手い下手は当然あるが、人が歌を唄うのは、歌を唄う自分があるからなんだ。歌を唄っている自分がその時は好きなんだ。唄っている時は上手いとか下手もそんなに気にならない。後で録音したテープを聞くと自分の歌の程を知るので、唄ったことを後悔したり、下手だなと思い知らされるのだ。

 でも、歌は唄の上手い人だけのものではない。人は、歌を唄う自分が好きだから歌を唄う。上手なだけの歌が聞きたければ歌手のCDでも聴けばよいし、なんならライブに出かけるのもよいだろう。それだけで飽き足らず人が歌を唄うのは、結局歌を唄っている自分が好きなんだ。歌を唄ってその歌の世界に入り込んで感情移入し、歌との世界観を同一にする作業が歌を唄うことだ。

 ちょっと言葉が足りないかもしれないが、いやかなり言葉は足りないと思うけど、歌を唄う自分が好きだから歌を唄うのだろうと思う。それは突き詰めれば人それぞれのナルシズムのなせる業ではないかと思う。歌の音痴な私には、そのナルシズムがせめてもの救いである。今に見ておれきっと、あの人歌うまいねってって言わせるぞ!

Cools