不意の物音
2004/10/24

 不意の物音。
 それはどんな時の物音だろうか。

 つらつらと眠れぬ深夜。本を読んでいる。本を読んでいるとふとしたときに「すっ」と睡魔が忍び込んでくる。もとよりその睡魔を当て込んでの読書だ。「すっ」と忍び込んでくる睡魔の誘いのままに本を閉じ、灯りを消して目を閉じる。この自然な動作は、いつもはそのまま深い眠りへといざなってくれる。眠りを誘うような本は読みたい本であるが、多少無理をして読むような本が良い。その上に頭を使わないですむような本が良い。そんな本を読んでいると、やがて頭の中に靄がかかり、意識が本と睡魔の間を行き来する快い瞬間が訪れる。

 どんなジャンルの本でもついつい読まされてしまうような本だと、野鳥が今日一日の活動を宣言するかのように、射すような啼き声のする時間帯まで付き合わされてしまうことになる。野鳥の啼き声のする時間帯は、実際は夜が白み始める少し前で、感覚的にはこんなに暝くて本当に夜明けが近いのかと思うほどだ。だが間違いなく、やがて暝い空に薄い絹の白紗の幕を張ったように空にクリーム色が入りだしてくる。この時間は気温も下がっている。

 夜明け近くまで読まされてしまう本、そういう本に出会ったときは興の向くまま、一睡もしないで朝まで本を読む。そんなときにはもう体が興奮して目覚めてしまっているので、眠ろうとしたところで無理である。そういったときに眠れるのは、読まされる本のままに筋を追って読まされ、本との格闘の末に疲れ果てて、読中にばたんと討ち死にするかのように眠りに落ちてしまう時だ。そんなときはたいてい本は半開きのままベッドの下に落ちている。

 読まされるような本は冒険活劇や時代小説にSFなど、私にとって読みやすい本の事が多い。いわば映画や漫画と同じように私の中で既視感溢れる本である。自分の想像のままに、本の物語を元にあたかも自分がその本の映画監督となったかのように、登場人物のイメージを描き舞台を設定し、細部に肉付けを施し彩色する。血肉沸きおどるそんな想像力を膨らませてくれる本である。

 この場合でも私の場合は決してその物語の主人公になっていることはない。いつの場合も監督の立場で俯瞰的に眺めている。よく任侠路線の映画を観て映画館を出てくると、肩で風を切っているような雰囲気になるのとちょっと違うのである。実際に既視感あふれるビジュアルを提供されると、自分は何も想像する必要がないので、映画監督の立場が必要なくなってしまう。

 映画監督の立場を排除された場合は、ただ映画のヒーローやヒロイン、あるいは主だった脇役などに感情を移入し、自分が擬似体験をさせられてしまうことに面白みがあるのだ。ほとんどの場合自分が監督だったら、こんな絵は描けないだろうって処まで描いてあるのだから、敢えて自分の貧弱な想像力を働かせる必要はないのだ。だから感情移入をした余韻のままに映画館を出ると、知らずに肩を怒らせて風を切っていたりすることにもなるのだろう。


 「ごとん」と、その音は部屋に響いた。 誰もいない部屋に。 いや、誰もいないわけではなかもしれない。
 

 「自分はいつか喰われてしまうのだ」そんな感覚が日ごとに昂ぶっていた。
 「自分は喰われてしまう」必ずだ。
 身動きのできない状態のそれは、自分が喰われることを感じるだけで体が震えるかのようだった。
 「確実に、喰われる」それも文字どおりに、「喰われる」のだと思った。それはむごい喰われ方だろう。
 身動きの出来ないそれは必死でもがいた。多分もがいたのだろう。それも何度も何度ももがいたのだろう。
 すると何らかのはずみで、それは少し躄ることができたみたいな気がした。
 何百回もがいたのだろうか、「うごける」そう感じたそれは躄る実感を得ることができた。
 「動けるぞ」
 それはあくなき躄るを繰り返した。喰われるとしても、少しでも運命に抗いたい。躄る、躄る、躄る・・・


 不意に「ごとん」と、響く音がした。
 誰もいないのになぜそんな大きな音がしたんだ。いや誰もいないのではなく、私以外には誰もいないだけだが。その私はベッドの中だ。だから何かが落ちて「ごとん」などと、落下物が床に当たるような、やや大きな音はするはずがない。それなのになぜか「ごとん」と音が響いた。

 儘よ。今は本に夢中だ。そんな、ちょっと意味不明な音などにかまってはいられないぞ。

 朝、キッチンに行くと、床にジャガイモが一個落ちている。 なんだ、昨日の『ごとん』は、このジャガイモが落ちた音だったのか。でもこのジャガイモ、スーパーのビニール袋に入ったままでイスの上に置いといたけど、イスの上からどうやって一個だけ落っこちたんだ。ジャガイモがビニール袋を飛び越えられるはずもあるまいに。と、思ったか思わないうちに、私はそのジャガイモを拾い上げてビニール袋の中に戻していた。

Cools