書く
2004/12/09

 何も書くことがない。
 それなのに何か書いてみたい。今からタイマーを60分にセットして何か書いてみる。

 何かを書かなければと思うと、いざ、頭の中が真っ白になる。この時の頭の中は一体どういうことになっているのだろう。何らかの情報を得ようと頭の中はパルスが飛び交い、そのパルスが衝突しあって頭の中は真っ白になるのだろうか。それとも急激な脳の探索に脳自信が脳を護ろうとして、一切の情報断絶をしてしまうので頭が真っ白になるのであろうか。

 こうやって何か書いているから頭が真っ白になったのが嘘だろうと思うかもしれないが、本当に一時は頭が真っ白になったのだ。そこで頭が真っ白になったことから書いていけば何とかなるのではないかと思った次第だ。

 で、こうやって書いているけど、この文章は頭が書いているのか指が勝手にタイピングしているのか、実は私にもよく分からない。いや確かにこういった文章を頭の中で喋っていることは間違いない。それを指がキーボードの一つ一つをしっかりとタイピングしてこの文章というにはあまりにもお粗末だが、まあ一群の文字の羅列ができている。

 極単純に、頭の中で喋るのに合わせてキーボードを媒介として指先が文字を紡ぎ出していくのだ。紡ぎだすといってもそんな上等な布なんかじゃなく、織り目の揃わないちぐはぐな売り物にもならない布切れでしかない。ただ、それを自分ではまあ何とか織れているじゃないかと、思い違いと勘違いしているだけの事だ。

 書くというのはことさらかように難しいものなのだろうか。文法がどうのこうのとか言われると、書く事も躊躇してしまうが、話す時に文法的な話し方をしないのだから、文章だって意味が通じればいい程度の技法で充分よいのではないかと思うのだが、そんな文章は日本語じゃないといわれちゃう。

 そんなの日本語じゃないといわれても儘よ。日本語じゃなきゃ読めないなら読まなきゃよいだけだ。一字一句神経を払って作られた文章は、そりゃそれで美しく響きもよかったりする。文学かもしれない。ノーベル賞も貰えるだろう。でもそれだけが日本語じゃないだろうと思う。

 こんな雑多な文章だって書くという意思を持って書かなければ出来上がらない。しかも60分なんて時間を自分に架して書いている。自由な時間が充分にあるのに60分と言う時間を架すのは、その時間で作文をすることによって思考と指の連携をよりスムーズにしてみたいとの思いもどこかにある。どういうことかといえば頭で文字を紡ぎ出すのと、指がタイピングして文字を打ち出すのとを一致させてみたいのだ。それでその結果はどうやら、私の指は頭より遅れて動いていることが分かった。

 まあ、思考のほうはしょせんどこまで行っても遠浅の海であって、どこにも海溝の無い浅薄なものしかありゃしない。ただ浅い海だけあって、よく陽があったって海草や珊瑚などが茂って小魚や小動物の色も濃く生命力に溢れているかもしれない。

 そういうわけで次から次と雑多な思いだけは浮いてくるが、それらを繋げて一つの物とするにはあまりにも繋がりが無くて何一つ形あるものとして形成されることは少ない。だから今も何の考えもないままに思う言葉をタイピングしているだけだ。

 このタイピングをしながら懐メロ流行歌を聴きながら、ああここはこういう節回しで唄うのかとか、おお、長崎物語かなどと考えながらタイピングしている。オランダ屋敷に雨が降ると言うけど、いろいろな歌などで長崎と雨の歌詞は新密度が高いが、本当に長崎は雨が多いのだろうか。 なんて事も考えながらタイピングをしているんだ。

 ここでふとタイマーを見るとまだ35分も残っている。これから35分も何を書いていけばよいのかと思ってしまう。時刻は午後5時10分前だし、室外はもう薄暗くなって街灯もとうに点いている。真の闇よりもたそがれ時のほうが暗い感じがするのはなぜだろう。夜明け前のほうが真の闇より暗い感じがするのはなぜだろう。

 さて困った。ここから先が何も思い浮かばない。こんな支離滅裂な文章では何のまとまりもなくなってしまう。もっとも何かまとまりが欲しくて書き出したものではないので、時間が繰れば文章の途中であろうがこのページに関してはそれで終わりである。

 もう一度タイマーをみる。まだ29分の時間がある。うーん。ボーっとしている時間や楽しい時の時間は過ぎ去るのが早く、過ぎ去る時をひたすら待っている時間の進み方は特に遅くなる気がする。アインシュタインは人によって時間の進み方が違うようなことを言っていたが、それは、まさかこの事じゃあるまいなあなんて思ってしまう。

 しかし時間というのは一体なんなのだろう。単純に一方通行で流れるだけのものなのだろうか。光速で動けば時間は止まるそうである。光に近い早さのロケットで地球を旅立てば、地球で10年経ったとしてもロケットの中では1年も経っていないこともあるらしい。それでもそのロケットが地球に戻ってくると減速する必要があるのでその間に9年間を費やしてしまうということになるので、未来にたどり着くことは出来ないらしい。

 「時間というのは残像である」これは彼の有名な方が言った言葉である。えっ、その彼の有名な方は誰だって? そ、それは私です。すみません。でも時間が残像だと言うのはあながち間違っていないとは思いませんか。私たちは全て残像を見て生きていると。

 夜、空に輝く星の光は同じ時間を生きている光ではありません。1光年かけて届く光は1年前の光だし、50億光年かけて届く光は50億年前の光です。1年前の光ならなんとなく理解できるけど、50億年前の光なんて、地球が誕生した頃の光なんてちょっと信じられない。その光を放った星はすでに存在していない可能性もある。

 50億年前の星の光。その光のが今私の所に届いた。しかし50億年後にはその星は消滅しているかもしれない。星と言えば恒星だ。自ら光を放つそれこそスターだ。我々の住む星系で言えば太陽に当たる。地球は惑星で月はその衛星である。星の消滅はそれら惑星の運命も一蓮托生であろう。

 50億年前の光はただの残像である。50億年前の太陽によって生かされた居た惑星に生命が生まれ文明が育まれたとしても、それは人のライフサイクルでは無限ということ叶わないほど別世界の事だ。その残像が夜空に光る星である。ということはこの太陽系の地球にいる私の光も今は存在しているが、それは残像に過ぎないのかもしれない。

 その残像がこんな風にして頭の中に生じた文章を指先を動かして文字を綾なす。その綾なした文字をインターネットを介して誰かに読ませようと企む。そして誰かがそのたくらみに載ってしまいこの駄文を読んで時間を消費する。

 駄文を読んで時間を消費したとて怒るまいぞ。しょせん人の時間はただの残像。その残像が残像に対して怒ってみたとてなにになる。自分の人生が何を成すかがわかっただけでも良いではないか。自分は残像だ。より強烈な光を放つべく生きていかなければその残像さえ危うくなる。

 ううーむ。こんなに書いてもまだ6分も時間が残っている。6分と言えば流行歌の二つは唄える時間だ。ちょうど私の好きなな東京行進曲が流れている。これは昭和4年の流行歌だそうだ。昭和4年は小沢昭一さんの生まれ年だそうだ。えっ、小沢昭一さんを知らないって。TBSラジオの「小沢昭一の小沢昭一的心だー」なんて番組知りませんか。

 さすがにここまで来るともう何も書く事はない。と書いたところでタイマーが鳴ってくれました。終わり。

Cools