午前11時40分ごろ。雪がちらちら舞ってきだしました。カラオケについては表題で書くのはこれで二回目だが、それまでにいくつかの表題でカラオケのことについてなにやかやと書き記してきた。今回改めて「カラオケ2」として年の暮れに書いてみたい気分です。
実は「カラオケ」という表題で書き記した時期は今年(2004年)の6月ごろのことです。そこでは書いてありませんが、そのときには姉は重度の介護が必要な「要介護5」に指定されていました。それまでの姉は両手足が動き院内で独立歩行できる数少ないか唯一の患者でした。それに両手も使えますので箸を使っての食事もちゃんとできる状態にまでなっていたときは「要介護度3」にまで回復していました。
脳外科手術の不手際により高次脳機能障害を起こしてしまいましたので、自分から積極的に行動をする能力が低下しています。トイレも行きたいのか行きたくないのかはっきりしないなど、自分から要求を出すということをほとんどしません。
そんな姉ですからおとなしいわけです。病院とすれば世話のかからない患者といえるかもしれません。そんな姉は寝たらねかっせっぱなしになっていたり、椅子に座らせたら座らせっぱなしになっていることが多く、どうしても身内が行って散歩などさせてのリハビリを余儀なくされてしまいます。姉は意思はあるが外見と行動はお人形さんに等しいのです。
そんな姉でも私が歌を唄えば一緒に歌いだすのです。病院内外を散歩するときは姉の手を引きながら、二人で歌を唄いながら散歩したりしていたのです。そんなことが一年ほど続きました。
私は病院へ行くのがいつも午後3時ごろからで、病院までの道のりを小一時間かけて自転車を漕いで行きます。行きはごくゆるい上り坂になるので、軟弱者の私には最初の3ヶ月間は病院の往復は本当に体が疲れました。それでも姉に会いに行かなければならない使命のようなものを感じて、一日も欠かさず姉の入院している病院へ通いました。その間約2年間です。
4時ごろ病院に着くと夏の暑い日は汗だらだらです。面倒なので夏は上半身裸で病院まで行きました。それが可能なのは病院までの道のりのほとんどを河川敷の土手を通っていくことができたからです。冬でも小一時間自転車を漕ぐと汗をかきます。なのでいつも余分な着替えはかかすことができません。
そうやって姉の入院している病院では夕食までの間、姉のためのリハビリ散歩1時間ほど、そのほかゲームや文字を書かせたり本を読ませたりして夕食時間まで待機します。夕食は午後6時に始まります。夕方五時半ごろになると患者さんたちは食堂のほうへ集められます。食堂ではそれぞれほぼ決まった席に陣取って配膳があるまで待ちます。
その夕食が配膳されるまでの間、他の入院患者さんたちと雑談をしたり、しりとりをしたり、時々歌を唄って過ごします。姉はまだ若い方ですが、多くの入院患者さんは70歳以上の人がほとんどです。なので唄う歌も古い歌か童謡唱歌じゃないと知りません。
いや実際には知らないのじゃなくて、記憶に残っていないのでしょう。ザ・ピーナッツあたりの歌でさえもう知らないといわれるのです。生まれていないならいざ知らず、たぶん人生で精力的な時代じゃなかったかなあと思う流行歌を知らないというのは、ちょっと不思議な気がします。
そこで考えてみたのは、ある程度年齢が行ってしまうと自分にとって自我が芽生えたころ、大人のちょっとませたような自分にとって背伸びした流行歌が記憶の中に鮮明に残るのではないでしょうか。それと学校で習った童謡や唱歌は自然と口ずさんでしまうようです。
最も昔の流行歌は今の多くの流行歌のように単年度程度の流行ではなく、息が長く何年も歌い継がれているのでよりサブリミナル効果により記憶の深部に強く保存されているのかもしれません。そしてその歌は自分にとって何らかの思い出とも結びつくものがあり、長い人生の中で繰り返し呼び出される記憶でもあったはずです。
そんなわけでお年寄りだからというよりも、記憶のメカニズムでそういった歌が体の中に生き残っているのかもしれません。戦後生まれの私でもそれらの歌は記憶にぼんやりと残っているのです。テレビで三橋美智也さんが古城を歌っていた記憶もあります。古城などは私が今年からカラオケを始める前から時々口ずさむ歌で好きな歌でもあります。
そういった古い歌ならお年寄りたちは皆さんで唱和して唄ってくれるのです。夕食の善が配られるまでの間、私はそういった古い歌を皆さんと歌えるように、インターネットで個人が作成したMIDIファイル(曲だけのデーター=カラオケ)を提供してくださっているサイトを巡って古い歌を練習していました。そんなことをしている内に私はすっかりカラオケが好きになっちゃったのです。
二月下旬。姉が嘔吐の末に呼吸障害により低酸素脳梗塞となってしまいました。このときは1ヶ月ほど前からノロウィルスの院内感染が蔓延しており、姉もどうやらそのノロウィルスに感染していたようで、嘔吐による呼吸障害からの低酸素脳梗塞を起こす一週間ほど前にも嘔吐して大変であったとの報告を私は看護婦から受けていました。思えばこれがそのときの伏線だったのです。それに気づかなかった私も私は馬鹿でした。
二月下旬未明。病院から呼び出され姉が危篤状態であることを知る。すぐに脳専門病院に転院させてもらい、そこで2週間ほど経ち、何とか一命は取り留めたものの、目覚めているだけの植物人間状態となってしまいました。元の病院に戻ってまた同じ日々が始まりました。もう姉との散歩もできません。一緒に歌も唄えません。私は姉のベッドのそばで知っている限りの歌を唄ってあげることしかできません。辛かったです。
目覚めている植物人間状態の姉。その姉はそれから4ヵ月後には肺炎を起こしてあっという間に冥土の飛脚に連れて行かれてしまいました。本当はどうあれここで病院を訴えなければいけないところです。普通に入院している姉を24時間見張っていろなんててことは難しいことだろうという事も分かるのですが、ノロウイルスに感染していてすでに嘔吐した姉などに対しては病院側は注意深く様子を見るのが入院している患者への最大の義務でもあるわけです。見回り時間外に嘔吐した姉の運の悪さとあきらめるわけにはいきません。ただその運の悪さには今も自己嫌悪に陥ることしばしです。事故なんだから、姉の子には病院を訴えなさいと言っているのです。
姉が亡くなってしまいました。二年間姉の病院へ行くことのみが私の日課になっていました。その日課がぷつりと切れてしまいました。幸いそのときには二級ヘルパー講座を申し込んであったので、それを受講することによって少し気がまぎれました。
でも、講座のない日でも午後になるとなぜか自転車を取り出してどこかへ行かないといられない気分になります。姉が亡くなったのは初夏だったので、高尾山山麓まで自転車で行ってそれから高尾山の登下山週に2−3回。少し寒くなってくると小仏峠の方へサイクリング。午前中はパソコンをカラオケマシーンと化して何時間もカラオケの練習です。
カラオケ練習は録音をして、高尾山登下山やサイクリングのときに自分の歌を聞いています。一応自分の歌をチェックするつもりで聞いているのです。下手な歌でも自分の唄って何度も聞いていると自分の声にも慣れ、自分の唄っている歌のテープを聴くのが好きになりました。姉が亡くなってからの半年はカラオケとスナックとママチャリで外へ出るということで明け暮れました。
私は兄弟であれ誰であれ、人の面倒を見たり世話をしたりするということのできる人間だと思いませんでした。だらしない人間を見れば、それらはだめな人間だと思いそこまでなるその人を許容することなんてことができませんでした。酒を飲んで酔っ払うなんていうのは自分ならよくても、他人ならただだらしなく酒に飲まれているだめな人としか思えませんでした。
そんな私ですから孤高といえばかっこいいですが、一般から見れば逆に変人です。とっつきにくい人間だろうと思います。特殊なことや専門的なこと以外の事で、1を言ったらせめて3−5ぐらいは推測理解できない類の人間は私は相手にしたくないタイプなのです。
私には両親はとっくにおりません。特に父も母も恋しいとも思いません。まあ、兄弟だけいればよいと思っていたら、この3年の間に兄と姉を失ってしまいました。兄は2週間足らずで旅立ち、姉はその二年後病に倒れ二年間の闘病の末に旅だってしまいました。
その姉が闘病していた二年間は確実私を変えました。どんな人を見ても外見で人を判断する事がなくなりました。どんな状態の人を見ても避けて通ろうとする事は少なくなりました。でも、できる事できない事はあります。そして姉が残していってくれたものはもうひとつあります。それは歌を唄う楽しみです。唄いながら死んでもいいほどに今は歌を唄う事が楽しいです。
唄いながら死んでもいいなんて事を言うと、どれほど歌がうまいかなんて思われちゃいますが、相変わらずの音痴には間違いなのが辛いところです。ただしものを好きになるというのはそういうことなんだということもし知らない人がいたら知っておくとよいだろうと思う。私は自分のしたいことはすべてそうやって楽しんできた。それにのめりこむ事によって、よりそれが好きになるものなのだ。これは人を好きになる事だって同じだと思う。
今は2004年12月31日午後1時25分。この文章を書く前からふわふわ降り出した雪が、今は車の走る轍以外を白く染めている。まるで私の心を白く塗りつぶしてくれるように。中島美嘉の「雪の華」の雰囲気でです。私にとっては「雪の華」は姉を思ってとても切ない歌となり、夏川りみの「涙そうそう」は兄を思っての悲しい歌となっています。どちらも大好きな歌です。
・・・白い雪が降り続く年の暮れです。
Cools
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