脳内生成物質
2005/01/10

 1月10日月曜日。快晴。起きてみると私の住む小さな町はとても静かだ。ひょっとしたら祝日か、と思ってカレンダーを見たら案の定今日は成人の日だった。

 まあそんなことはどうでもよい。私の日々の日常は週間の祝祭日に影響を受けない。今日も多少パソコンのキーボードをたたいて、それから時間の許す限り歌の練習をする予定だ。お金と人生に余裕があれば朝から晩まで歌の勉強をしていたいほどだ。まあ、今お金は無いが時間的余裕はあるので朝から晩までカラオケの練習をしているのだけど、そうじゃなくて音楽の先生について声楽や楽譜の勉強をしたい希望がある。

 私は何でものめりこむと夢中になってしまうので、何かにのめりこんでいる期間は本当に楽しくて仕方がない。恋愛の頂点に昇り詰めるようなものといえるだろうか。政治や宗教にのめりこめば誰かまわず布教するタイプかも知れないので、対外的活動を伴うようなものにはのめりこまないほうがよいだろう。まあ社会的行動はあまり好きではないので、多分そういったものにのめりこむことも無いと思うけど、私の場合は個人プレイとして出来ることにのめり込むのだ。こんな性癖なのだろう。

 カラオケボックスにもランチタイムを利用して半年ほど一人で通った。今では一人で行くのが億劫になりほとんど行かなくなったけど、誰かが行こうといえば多分飛んでいくだろう。一日4−5時間唄い続けたって飽きないのだ。多分唄う行為には脳内において幸福物質が生成されるのでそんなことが可能なのだろう。その脳内に生成される幸福物質は一種の沈静と興奮の両方をもたらすようなものなのだろう。

 コーヒーには沈んだ気分を陽気に、興奮した気分を落ち着かせる両方の作用効果があるらしい。といってもそれはわずかなものでコーヒーを飲んで「ほっとする」程度のものだろう。このコーヒーのような作用よりも歌を唄いつづける時にはもっと強い覚醒作用っぽいものが出るのではないだろうか。それはひょっとしたらモルヒネみたいなものかもしれない。いわゆる脳内麻薬ではないだろうか。

 脳内麻薬は脳が自身を守るために作り出す物質だ。人の体の中でもっともいろいろなものを必要としているのが脳だ。脳の活動は糖質と多くの酸素を必要とする。そのため心臓から押し出される血液はまず頚動脈を通って脳に送られる。そのため心臓内の血液の流れがむらになって血栓が作られるとまず脳に送り出され脳への血管がその血栓によって閉塞されて脳梗塞を起こす可能性が高くなる。

 今まで人は食物の過剰摂取という問題に対応してきていない。現代人というのはすざましい飢餓戦争の中で生き残ってきた動物なのだ。野生動物の行動の9割以上は生きるために食べることにのみ費やしてきているそうだ。9割と書いたのはうろ覚えなので正確ではないかも知れないけど、まあ生き残るための個体維持のためにはそれほどの捕食活動が必要なのだ。

 野生動物は行動の9割を捕食活動に費やして生き残るべく生き残ってきた動物だ。それと動物は左脳で考えないので食べるとき食べるだけ食べたらそれ以上食べることはしない。なので余分なカロリーをとることはほとんど無いだろう。それでも貧栄養地よりも豊栄養地のほうの動物のほうが豊かな体型をしていることは間違いないだろう。

 それに野生動物といえども食べることの問題が少なくなると、捕食行動に費やす時間が減るために遊びみたいな行動が増えてくるのも面白いところである。一言で遊びといったがこの遊びには集団の社会性や求愛行動の複雑さ、実際雪の斜面を滑って遊ぶなど雑多なことを指す。そして特に人間は食物を保存したりすることによって、そういった余暇時間を確保し、余暇の活用から遊びから左脳が発達してきたのだろうと思う。

 人の場合は物を保存することを憶えるにはまずは手が使えることが最も重要だったのだろう。二足歩行がその最初になるだろう。立って歩くことによって人はどんな動物よりも自由な視界を得て身を守ることが出来た。自由な視界は行動範囲を広げる。自由な視界と行動範囲は雑食性に人にとってより豊富に食物を手に入れることが可能になる。食物を手で収穫することによってさらに脳の機能が発達していく。突き出ていたであろう口吻は立つことによって頭部バランスが悪いためにだんだん平坦となって複雑な発声が出来る口にへと進化していく。そして人が人として誕生した。

 しかしその前に人も野生動物であるので、日がな捕食活動に明け暮れ個体の飢えを満たすことに専念してきた。その中で生き残ってきた人間のほとんどは飢餓細胞を持っている。この飢餓細胞というのは生き残るために少ない食べ物からでもそれを脂肪に変えて体に温存させておく細胞のことだ。それは食べ物の少ない季節に体の中の脂肪を燃やして生き残るためのものだ。いわば資源を無駄遣いしないからだなのだ。

 ところがその資源を無駄遣いしない体は現代のように食品があふれている地域に住む人にとっては、ちょっとしたカロリーの過剰摂取で肥満体となってしまう。これはどんな人でもそうなる。ただ、食べたカロリーを全て消費してしまう脂肪貯蓄性の悪い体といえば聞こえが悪いが、とても代謝のよい体となっている人もいてそういう状態にある人は少々食べ過ぎたって容易には太らないみたいである。それも限度を過ぎると過剰摂取肥満になっていく。

 人が日常的に物を食べるのはどうも本能ではないみたいだ。意識はしていないだろうけどご飯を食べようと意識して食べる左脳でご飯を食べている。理性脳の左脳で食べるといっても、脳は糖分によって働いているので食品を食べることを厭わないみたいで、左脳で食べ続けることをしてもそれを止めようとはしない。あー、こんな暴飲暴食をしていちゃあだめだなあって思っていてもそれを止めることが出来ないのが左脳だ。右脳なら本能なので充足すれば止める。

 脳は自分のためにだけ人の体を操るエゴイズムの塊だ。脳にとって都合よく人をコントロールしているつもりなのだが、左脳の働きをとめることは出来ない。左脳の働きを止めることが出来ないなら、脳にとってはそれはそれは自分で選んだのではないという大変好ましくない結果になる。

 脳は好ましくない結果に陥るとどうなるか。脳内麻薬等をを生成して自らをごまかすのである。何時間ものカラオケを唄うや激しい音楽を長時間聴く・激しいスポーツを長時間続ける・事故など際の時間遅延・怪我などの痛覚の消失などは興奮時の過剰アドレナリンや脳内麻薬の生成が関与しているのだろうと思われる。

 脳というのと人の思考というのは別物である。考えで自分の息を止める事は出来ない。息を止めるには左脳で人として考えて首を吊るなりしなければ息は止まらない。脳は自分を殺すことは決してしない。自分を守るためにあるとあらゆることはしても、自分を殺すためには何もしない。いや消極的には自分が殺されることに耐えられないと、鬱性物質のようなものを生成して自分自身と心を鈍化させるようなことをしているのかもしれない。

 左脳で考えていることと脳が考えていることは違う。私は歌が好きなって歌の勉強をしている。歌の勉強といってもカラオケ程度だが、そのカラオケで歌を唄うときに最初のころは伴奏がほとんど耳に入っていない。半年以上もたってやっと最近その伴奏のボーカル部分が耳に入ってくるようになった。それだって体の中にある曲で唄ってしまうとすぐにその音は聞こえなくなってしまう。

 カラオケでも何でもよいが音楽の伴奏音は人としての可聴なのでほとんどの音は脳内に達している。でもその脳内に達した音を仕分けして聴く能力が育ってこないと歌はうまく唄えない。つまり耳がよくなるということが歌がうまくなるための絶対条件なのだ。音痴の私でも伴奏なしで唄うとそれなりに歌らしく聞こえるものが、伴奏に合わせようとするととたんにひどい歌になる。それはどういうことかというと、聴いて憶えている歌を唄うのと、曲に合わせて唄うのでは脳の働きが全く違うと思うからだ。

 歌がうまく唄えることによって脳内に幸福物質が作られだすと、どんどん歌がうまくなってくるだろう。そういった幸福物質は長時間同じ行動を続けることによっても生まれる可能性があるので、物事の習得には何事にも程々というのもある。と今日は自分のカラオケのやりすぎを自戒しておくことを記す。が、その自戒はたぶん自戒しないだろう。

Cools