社会性
2005/01/17

 私には社会性というものが欠如している。と、自分では思っている。

 しかし、社会性って何だ。大辞林・国語辞典によると社会性とは「集団をつくり他人とかかわって生活しようとする、人間の本能的性質・傾向。社交性」となっている。なるほど社会性とは集団を作り他者とかかわって生活しようとする本能的性質なのか。集団を作れない私のような一匹狼でも他者とかかわらなければ生活は成り立たない。原始自給自足を元より経験していない社会集団の中に生まれた身としては、自分でいくら一匹狼と思っていてもすでに、社会に生れ落ちた時点で社会性はついて回るものなのだろう。

 一人で自給自足できる環境にたった一人で陥ったならいざ知らず、まがりなりにも親に育てられ学校にも通った人間は一匹狼とはいわないだろう。その場合は一匹狼という言葉がふさわしくなく単に社会性が低い状態といえようか。つまり人と合わせる協調性などの面での能力が劣っているのだろう。あえて自分で群れから離れたか離れざるを得なかった本来の一匹狼ではなく、協調性が低いため敢えては社会性的なことを何もしないままにきたことで社会性の欠如した環境を自分の周りに構築してきた結果といえる。

 大辞林・国語辞典によるとほかに「社会性昆虫」なんてのもあった。社会性昆虫とは「同種の個体が集団となり、形態・働き・習性のうえで個体間に分業がおこり、それぞれの個体の協力によって種族全体の生活を維持する昆虫。個々の成員は自由に行動できるが、集団を離れて単独では生活できない。ミツバチ・アリ・シロアリなどに見られる」とある。

 私も社会性は欠如しているがそれでも集団を離れて単独では生活はできない。集団を離れて単独で生活するということは私の定義でいけば現代文明の一切を用いない完全な自給自足だ。お金で必要なものを買って山奥で一人で生活するというのは一見一匹狼のように見えるが、実際には一部分にしろある社会にかかわりあって生存していられるに過ぎない。しかしその一部分は本人にとっては生きるための全ての部分でさえある。それがなければ生きていけっこないのだ。

 ところで私は社会性が著しく欠如していると思っている。知っている人は多少いるが、私は認識していないけど私を認識している人は私が知っている人よりは多いみたいだ。こんなのを社会性がないというのだろう。私が知らないのに相手が私を知っているなんて芸能人でも有名人でもないのに不自然だ。それは私の目が開いてないから、つまり私を知っている相手を私が知ろうとしていないから相手を記憶の隅にも置いていない結果だ。

 私の社会性のなさというのは友達もいないし、知人はいても尋ねていけるような知人が一人もいないことでも分かる。この年まで生きてそんな人がひとりもいないってことが不自然だ。この歳ってどの歳だといわれると五十半ばである。五十半ばの人間が尋ねていってお茶一杯出してもらって飲んでくる知人一人もいないなんてそれこそ社会性の欠如している証拠だ。

 横着物の捻くれ者に相応しく私は自分に甘く人に厳しいので協調性もない。話をするにも人に合わせるより人をやりこめるほうが好きだ。リーダーとして人がついてくるような人格でないのにすぐに何でも主導権をとりたがる。私はどんな勉強会でも自由に席についてよいときは市場前の席に陣取る。決して後ろの席に隠れるように座るなんてことはない。もっとも前の席のほうが灯台下暗しで後ろの席のほうが演台からは目立つ場合が多いみたいだけど。

 不定席順で前に座るということは一応意欲があるとされている。それなので私はその意欲を見せるために前の席に座る。そんな私でもどうしても苦手な分野だけはなんだか一番後ろの隅の席に座るようになる。心は敏感に座る場所にも影響してくるものなのだ。同じような会合などの場合は、経験を積むほど席は後ろになってくるという現象も見られる。私はそういった経験をつむほど協調性(この場合は継続性か)がないのでそんなに長く経験を積むほど社会性的な物事に滞留することがなかった。

 私は四人兄弟姉妹の末っ子である。男二人姉二人の四人兄弟姉妹である。その真ん中の兄と姉を近年喪ってしまった。唯一お茶の飲める知人ではないけど身内だ。私の社会性はこの兄弟姉妹に依存していたのに、その社会性の依存先も二人の死によって無くなってしまった。両親なんて遠にいないし私は独り者だから連れ合いの類人縁者さえもいない。元々社会性の欠如していた私はそんなことでより社会性を欠如をしてしまった。

 姉が亡くなる前約二年ほど病院に入院していた。私はこの姉の病院見舞いと後にリハビリの手伝いみたいなことをしてその二年間を過ごした。姉の連れ合いはすでに無くなっていた。姉には一人娘がいて、娘は連れ合いと二人の男の子を儲けている。娘は子供が小学生児なので母親のお見舞いにもそんなにこれないみたいで、私が入院中の姉の面倒を見る采配を振るわざるを得なかった。

 姉が入院していた二年間で私は色々な勉強をさせてもらった。好むと好まざるとにかかわらず毎日姉の入院先に通うようになった。その間色々な人との接触もある。とはいえ病院と患者というお互いに一方通行的な関係である。入院患者同士でさえ患者同士という一方通行的な関係である。お見舞い客同士でも同じだ。

 さらに幾つかの団体にも参加してみた。色々な勉強会にも出席した。そして色々な人たちを観察してみると確かに社会性があるように見える人でも、実際にはそれほど社会性があるようには思えない。社会性社交性という言葉に置き換えることもできるが、その社交性だって私のほうが若干高印じゃないかとさえ思える。ただ社会性や社交性があるように見えるのはその人が色々な集団に属しているからそう思えるのであってそう思う人の幻想に過ぎないかもしれない。

 色々な集団に属していると活動的だし社交性も高そうで社会性がありそうに見える。それこそが社交性という実はマジックではないのだろうか。実際に社交性なんて誰もそれほど高くないのではなだろうか。社交性があるなんて言葉の幻を追い求めて自分は社交性が欠如しているなんて自分を思ってしまうのではないだろうか。

 一青窈の「もらい泣き」という中の歌詞の部分ではないが人は基本的に「ダンボールの中引きこもり・・・」状態で、でもそれじゃだめだと思って「デモね、ただ・・・きいてキイテキテ」の気持ちが人を何らかの集団を作るか、あるいはそれに加わろうとする社会性的なものを求めさせるのではないだろうか。集団になると集団としての社会性昆虫的働きを働きかけることもできるようになる。そういったことが社会性といわれるゆえんではないのだろうか。

 そういったものが社会性といえば社会性を高めるには集団に加わるしかない。集団に加わるにはある程度の協調性が必要だ。自分を抑えコントロールしていくことで人間性も高まる。ところで人間性って何だ。人間性って「人間を人間たらしめる本性」とは言うけどその「人間の本性」って何だ。人間の本性と「人間の欲望」との違いはなんだろうか。人本来の性(しょう)はその人の欲望ではないのだろうか。人の欲望を抜きにして人間性ありえないだろう。

 そういったことを考えてみると「なになに『性』」とつく言葉は本来の人間の欲望の方向性を示す言葉でしかないのではないだろうか。社会性に至っては集団として群れて集団への帰属性を高めて安心感を持つためのものと考えればよいかも。とすれば人は本来孤独を好まないのだろう。人は孤独を避けるためには何をするか。社会性を高めることしかないだろう。私は社会性を高めて孤独を回避することができるのだろうか。集団の中の孤独はより孤独であると分かっているのにそれでも社会性を求めるのか。私は社会性が欠如している。と、自分では思っている。

Cools