土曜日の晩少しばかり飲みすぎた。
いつも土曜日によっていた店(スナック)にここ何回か寄らなかった。私は人の観察をするのが好きなので、半年ばかり通ったのでなんとなくその店が飽きてしまったからでもある。それで最近見つけた店に行きだした。その店は道の角にある店で坪数にして20坪ぐらいあるだろうか。70ぐらいのママさんが一人でやっている。昼間も営業をしていて昼間はランチを出していてカラオケが出来るそうだ。一度昼間も行ってみようかななんて思っている。
この店は夜はママさん一人なので気楽で良い。しかもママさんはアルコールを飲まないので、客にそういったものを飲ませてもらって売り上げにしようという魂胆がないので、貧乏な客としてはそれもありがたい。真露(ジンロ)焼酎
だって2千円でキープできる。明朗会計である。私はこの時期はお湯割りをいただく。
9時過ぎから飲みだして、店を後にしたのは1時ぐらいだったのだろうかなあ。真露半分ほど飲んで飲んだ勢いで10曲ほどもカラオケを唄ってかえってきた。それにしても今どの客もカラオケがうまい。私なんぞそれから比べると本当にへたくそである。
自分で下手だという自意識があるので余計へたくそになる。一種の負け犬根性という奴だ。上手とは思われなくてもそこそこに唄いたいなあと思うのだが、ところどころの音程やリズムが狂ってしまうと曲が乱れてしまうので、下手さ加減がもろに出てしまうのだ。私程度の下手な人は幾らでもいるのだけど、そいういった人は唄い慣れているので音程の崩れそうな部分を曲にあわせて適当にごまかして唄うのでそれなりに聞こえちゃうのだ。
それなら自分もそうのように唄えばよいのにと思うけど、自分にはそれだけ歌を唄った経験の場数が圧倒的に少ない。だからそんな風にごまかして唄うことも出来ない。それに私の唄は力が入ってしまう怒鳴り唄だ。スナックで唄っている人の多くは易しく丁寧に唄っている。上手だなと思うけど何の感動もない。といって私の唄なんかは怒鳴りすぎてうるさいので聞いていて聞き苦しいといわれる。
歌手の方のオリジナルCDを聞いていると淡々と唄っているようだけどしっかり力が入っている。だから私もそんな風に気合を込めて唄うのだけど、それを私がやると人の顔の特徴だけを強調したデフォルメした漫画のような歌になっちゃっている。感情を抑えながら感情を入れて唄うのが大事なのだろう。
スナックでカラオケを唄う人にな大きく分けて3種類のタイプがいる。歌が好きで歌を唄うときに体に歌を唄うスイッチが入ってしまう人。歌を丁寧に上手に唄うことだけに専念する人。俺はうまいんだぞって感じで歌う人。私は歌を唄うときに歌を唄うスイッチが入る人がうらやましい。そういう人は本当にうれしそうに唄の世界に溶け込んで歌っている。
歌は上手下手ではない心だという。それは分かる。どの歌だって唄いたい気持ちがある以上誰だってその歌に思い入れがあるものだ。そのかなのひとつの単語にだって涙を流すほどの思いも当然ある。そんなものが無い人の方がいないはずだ。それなのに歌は心だといわれる。それはどうことなのだろうか。
歌そのものに対する気持ちではなくて、特定の歌の特定のの詩は人々によっての心をゆするものがある。だからこそその歌を歌いたいのだ。その心があって歌ったってそれが唄として出て行かない。歌は心だけど、その歌を歌う心は唄を歌う技術も必要なのだ。歌の下手な者には心が表現できていないと思われるのだ。
歌ではないが気持ちを伝えるのは心だという。その気持ちを伝えるのに引き合いに出させる手紙がある。以下は野口英世の母シカが、アメリカのロックフェラー研究所の息子英世に宛てた明治45年1月23日付けの手紙だ。インターネットからの孫引きだから一部内容は正しくないところもあるかもしれない。が、ほぼ原文に近い内容だろうと思う。
「おまイの。しせにわ。みなたまけました。 わたしもよろこんでをりまする。 なかたのかんのんさまに。ねんよこもりを。いたしました。 べん京なぼでも。きりがない。いボしわこまりをりますか。 おまいか。きたならば。もしわけかてきましよ。 はるになるト。みなほかいドに。いてしまいます。 わたしも。こころばそくありまする。 ドかはやく。きてくだされ。 かねを。もろた。こトたれにもきかせません。 それをきかせるト。みなのまれて。しまいます。 はやくきてくたされ。はやくきてくたされ はやくきてくたされ。はやくきてくたされ。 いしよのたのみて。ありまする にしさむいてわ。おかみ。ひかしさむいてはおかみ。 しております。きたさむいてわおかみおります。 みなみたむいてわおかんでおりまする。 っいたちにわしをたちをしております。 ゐ小さまに。ついたちにわおかんてもろておりまする。 なにおわすれても。これわすれません。 さしんおみるト。いただいておりまする。 はやくきてくたされ。いっくるトおせてくたされ。 これのへんち(ち)まちてをりまする。
ねてもねむられません」
この手紙を読んで、書いてある内容が完全に理解できなくても心を打たれない人がいるだろうか。内容はとても稚拙だが母の息子に対する思いにあふれている。この思いが人の心の中にどのようにして生まれるのか。この手紙は野口英世の母からの手紙として公開(現物は野口英世記念館)されてるもので、小学校のころこの文章に触れた人も多くいらっしゃることでしょう。
野口英世の母から息子への手紙はいわば親書であり歴史的人物となって始めて公開されたのですが、普通親書は公開されることはありません。それは手紙を出したほうと受け取った二人の出来事だからです。その親書でさえ、いや親書だからこそ見ず知らずのものが見ても心を打たれるのかもしれません。
歌謡曲に限らず色々な歌にはその人にとって思い出となるものがあります。その思い出を聞けは気持ちはそれぞれの思いの空間と時間に旅立って生きます。その思いを体で表現をしようとするとその思いの歌が生きてきません。それはなぜなのでしょうか。それはたぶん聴くほうにとっても同じような思い出もあればそれより強い思い入れもあるのでしょう。いやどちらがその思いや思い入れが強いかなんてそれは秤では計れません。
結局その思い入れを表現するにはそれだけの技法が必要にならざるを得ないのです。受け入れるのと自分から出すのではそれだけの違いがあるのです。自分の思いを歌に込めて自分の体から出す。幾ら自分が思いを入れているつもりでも、歌としての基本を逸脱してはその思いは伝わらないのでしょう。私は歌を上手に唄いたいと思っています。出来れば心が表現できればと思います。歌は心だとは言いますが、心よりも歌は唄う技術が必要だと思います。唄う技術の先に心も付いてくるのだろうと思います。
スナックで歌を唄っている人の多くの人は歌が上手です。いまや歌手と歌のうまい人の一線は脆いものでしょう。歌手と歌手でない人の差は歌で飯が食えるか食えないかの違い程度でしょう。勿論その違いは月とすっぽんの違いです。
最近行くその店のままは、カラオケが出だしたころは8トラックで、そのころは多くの人がカラオケは下手だったといっていました。今はどの人もプロ並みに上手な人が増えたとも行っていました。とするとなんでも数こなせばうまくなるのか。それに心は必要ないのか。そう心なんて必要ないのかもしれない。心は誰だってある。その心を言うよりまずは技術を磨くことが先なのかもしれない。
数唄えばうまくなる。それは慣れというものだろう。仕事だってそうだもの。慣れには時間がかかる。土曜日の寄る少しアルコールを飲み過ぎたせいか、酒にも弱くなったと見えて日曜日は一日寝て過ごしてしまった。その間一時間ぐらい起きてカフェオレでメロンパンをかじった程度だった。日曜日に会った予定も行き忘れ反故にしてしまった。歌も下手。約束も守れない。情けない。
Cools
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