閉まっている
2005/06/21

 私が最近良く通っているスナックが、ここの所一週間ほど閉まっている。

 そのスナックで教えてもらったスナックのママが言うには、どうやらお姉さんが危篤らしいとのことだ。私が最近通っているスナックのままというのは70代に入っているママさんだ。言えばおばあさんだけど、なかなか粋なママさんでなんとなく気に入ったので私は週に3回以上は通っている。

 何度かそのスナックの付近へ行ってみたけど、通るたびに店に電気は点いていない。さらにその店で教えてもらった居酒屋に行ってみた。ここで何か情報を得られるかと思ったからだ。逆に休んでいるけどどうしちゃったたのかしらって聞かれちゃった。

 そして昨晩、その辺の別のスナックへ行こうとしたら、その店に明かりが点いている。約一週間ぶりだ。昨晩は仕事が遅くまであったので出かけたのは夜の10時半過ぎだ。店を開けてはいると前からの常連客が3名いた。内女性二名。男一人。ママの話を聞くとママの姉は亡くなったとのことだ。

 酔っ払いすぎていた女性一人と男一人が帰ったので、「ママ、こういう時は外へ行って遊ぼう」と言ってママと残っている女性客一人を引き連れて、先に言った居酒屋に寄りこんだ。悲しいことがあったら、それは一緒に遊んでくれる人がいるのが一番なのだ。遊んでくれたって悲しさは消えないけど、時々そのことを忘れることも出来る。

 私も4-5年の内に兄と姉を立て続けに亡くして、身内をなくした寂しさは良く分かる。なぜ悲しいのかも分かる。身内が亡くなったことは当然に悲しいのだが、それ以上に悲しいのは自分がかわいそうで悲しいのだ。それは、自分のことを気にかけてくれる身内がいなくなることが、自分を思ってくれる人が居なくなることを考えて、自分が哀れで辛くて寂しくて悲しいのだ。よく考えれば、これは自分中心的な、なんてエゴイズムな悲しみなのだろうかと思う。

 この、エゴイスティックな悲しみの感じ方というのは自分だけかもしれない。私には子どもがいないしいない子どもを亡くしたこともないので、親が子が我が子を失う場合はどういう気持ちになるのか知りたくもある。この場合は無償の愛を失った悲しみなのだろうか。少なくとも私のような自分のことを気にかけてくれる身内がいなくなることの方を悲しむ、ということではないのだろう。

 あるいは、我が子を失った親も、将来的には自分の世話を焼いてくれるかもしれない、自分のことを思ってくれる親に寄せる愛を失ったことの悲しみが強い場合もあるのだろうか。親も子の死を悲しむのは自分を思う子がいなくなることのほうが悲しいのだろうか。そのへん、奇麗事ではなく心底人の心が見てみたい。

 私が最近良く行くスナックのママの姉なので、年齢は確か80過ぎているかそれに近いはずなので若すぎる死というのでもないが、死の当事者でない者は人が死ぬまで人が死ぬとは死ぬことを理解しないものなのだ。死んで始めてもうこの世にいないことを感じて、寂しさと辛さが募ってくる。寂しさは、もうどこを探してもその人がこの世にいないこと。辛さは自分の事を思っていてくれる自分を知っていた人がこの世にいなくなって自分で哀れで辛い。

 人は確実に死ぬ。そんなの当たり前だと思うのは誰しも同じ。しかし死ぬまで死は理解できないことだ。死を理解したければ生きて生きて力強く生きることだ。そして悔いはあっても悔いなく人生を閉めるつもりで生きることだ。なに、気にすることはない。自分が死ねば自分にとってこの世も終わりになるだけのこと。来世も何もありゃしない。それとも私の得が低くてそういったことが見えないだけか(笑)

Cools