私が小学生の頃、姉が買ってくれたサボテンを栽培していた事がある。 しかしそのサボテンをどうしたかは覚えていない。少なくとも中学生の頃まで引越しの度に砂に詰めて持っていった記憶はある。
何時しか時は流れて社会人となり、仕事にも慣れ生活にも余裕が出て落ち着いた頃に、たまたま巡り合った洋蘭の虜になったこともあった。
洋蘭の中でも野生味の強い洋蘭原種にひかれ、小型原種洋蘭中心の栽培を始めた。小型洋蘭の原種としたのは比較的低温栽培に強いのと、植物体が珍妙な物も多くて私の好奇心を刺激したからだが、今にして思えばこれも烏羽玉サマの深謀遠慮の謀か。
洋蘭原種の知識を増やしていく内に、我国にも蘭科植物が豊富に自生している事を知り、私の興味は次第に日本の蘭に惹かれていった。そして日本の野性蘭の栽培や、関連して日本の山野草等を栽培して楽しむようになってきた。洋蘭原種だって自生地での野性蘭であり、いわば山野草といえるだろう。折りしも世の中も山野草がブームとなってきた。
山野草ブームの中で、やがて日本の野性蘭はそれぞれの種の変異個体が次々と報告されだした。山野草ブームの中で、並品では物飽き足らない人々が少しでも優品や珍品をとの思いの中から、種の選抜コレクションが盛んになっていた。
私は日本の野性蘭の特定種の変異個体を中心とした栽培に重点が移っていき、野性蘭変異個体遍歴が始まった。その理由はというと、植物に対する好奇心に加え、変異個体植物がマネーゲーム化していたからだ。好きな変異個体植物が高値で取引されるという、「色(植物への興味)と欲(売買)」のこれに勝る情熱はなく、まさに鬼に金棒という両輪であった。
この現象は園芸に限らず日本の社会経済全てにおいて発生していた。
この頃日本の世の中はバブル期へと移行していた時代でもあって、野性蘭の変異品に数十万円から数百万という値段が付く。まさに世の中の時代を反映したバブルが植物でも始まり、野性蘭変異品狂想曲が高らかに流れ出していた。やがてそれらは日本春蘭・寒蘭や富貴蘭等の古典園芸などを巻き込んで、最盛期にはついに一鉢の植物が一千万円を軽く越える物も現れた。
風船(バブル=泡)は膨らみすぎるとはじけるの喩えどおり、世の中のバブルがはじけると植物界のバブルもはじけだしてきた。この世に何事も普遍な事象はないのだ。ということはビックバンによりはじけたこの宇宙も、烏羽玉様の思い儚くはじけてしまうのは必定なのだろう。
だが悲観することはない。
はじけた後には再生と復活があり、そして物語はまた創られるるのだ。それにしても日本の社会は今や既に2002年であるが、物語は創られ始めているのだろうか、まだバブルのはじけ散るクオークの余韻がこだましている現状では、再生への道を踏み出していないのかもしれない。
最近聞いた話ではサボテン界もバブル期には、野性蘭等から始まった古典園芸や蘭科植物同様のバブル風が吹いていたそうである。交換会なども大変な活況を呈して、何万何十万の金がたった一つのサボテンに動いていたそうである。
その頃の私の感覚ではサボテンなんてバタ臭く感じて栽培する気は無かった。それでも石化(帯化・綴化=せっか=生長点の異常増殖により植物の形が変ること)サボテンや、多肉植物の万物想等に、植物としての興味を惹かれて購入し栽培した事がある。
しかし栽培の要点をつかめなくて、万物想など葉が落ちると休眠期に入ったこととも分からずに、てっきり枯れたものだと思って捨ててしまったりしていた。
私の仕事を手伝ってくれる人がある時に、5つばかりのミニチュアサボテンを買って持ってきた。セントポーリアの小苗などに使う3cmのポットに植え込まれた、本当に小さなサボテンたちである。それが今から1995年頃の事である。
その内の2個は枯れてしまったのだが、残った三個の方は現在まで生き残って僅かながら大きくなっている。
その間の管理というのは高台の窓の桟に置きっぱなしで、思い出したように月に一度ほど水をやっていただけである。その頃には、ガラスの器にサボテン用土ではなくカラーサンドを固めただけのもので植え込んであったサボテンさえ、たまの水やりでちゃんと生育していた。
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